2013年7月23日火曜日

おはらい町今昔 Oharai street

おはらい町(お祓いまち)

宇治橋鳥居前から宇治浦田町 伊勢市営有料駐車場に続く約800メートルの道



御師(おんし)

平安時代から御祈祷師(おんきとうし) として

特定の寺社参詣を世話する僧や神職のことをさし 御祈祷師の略

全国から訪れる参詣者の 参拝 宿の世話をした専門職 現在の総合旅行業者

おはらい町はこの御師達が軒を連ね お祓いや神楽で参拝者をもてなしたという通りである

特に伊勢は伊勢講を全国各地に結成させ 神宮の暦やお札を配布して回ったという

内宮 外宮に御師街が存在した



宇治橋渡始式




写真は明治時代に行われた「渡始式」のようす

よく見ると 五十鈴川の中にもたくさんの見物人が見受けられます


こちらは2009年の渡始式の模様です

饗土橋姫神社で神事が行われた後 渡始式が挙行されました



おはらい町中程 「おかげ横丁」入口付近にある建物

旧「水月樓 すし久」


現在は


赤福傘下の濱田興業 伊勢福が買収

改修し「手こね寿司 すし久」として蘇った


赤福本店前の橋を渡り五十鈴川から見れば




昔の名残を残す



なお 写真についてはブログ「いにしえの伊勢」の執筆者 jugemuさんのご厚意を得ており感謝申し上げます

2013年7月15日月曜日

神宮式年遷宮と出雲大社   Sjikinensengu & Izumo oyashiro

神宮  じんぐう

天照皇大神(内宮)と豊受大御神(外宮)を正宮とし別宮 摂社 末社 所管社を含む

百二十五社の総称 近代社格では超越 社格対象外

正式名は 神宮 所在地が伊勢であるため あえて「伊勢神宮」と称す

宗教法人法による定義

宗教法人名 「宗教法人神宮」


垂仁天皇二十六年   (内宮) 

雄略天皇二十二年   (外宮)の創建とされ

倭姫命がその大任を担った


式年遷宮


持統天皇4年 690年に第1回遷宮が行われ 戦国時代120年間の中断はあるものの

1300年間行われてきた神宮最大の神事である

2013年 平成25年10月 第62回式年遷宮 「遷御の儀」が執り行われる

神道に言う「常若の思想」が貫かれ 

20年毎に御正殿はじめ関連建造物並びに神宝 装束に至るまで

すべてあらためられます




明治天皇御製

”いにしへの姿のままにあらためぬ 神のやしろぞたふとかりける”



式年遷宮の意義は建築のみならず美術 工芸の伝承 後継育成にあります

「遷御の儀」が終わると次の式年遷宮に向けて新たな20年が始まるのです





出雲大社 いずもおおやしろ




島根県出雲市にある 旧官幣大社(現 別表神社)

宗教法人出雲大社教 宗祠

斉明天皇5年 659年 大国主命を祭神とする大社

国譲り神話からこの地に神殿を建てさせ現在に至るとあります

神仏習合により敷地内には多くの仏教建築物もあったようで

主祭神もたびたび変遷し また元の大国主の命に戻ったことは知られていません


出雲大社は別表神社に位置づけられ 宮司の世襲が認められております

言い換えれば宮司一族の「所有物」としての一面が伺えます

「出雲大社教」の千家氏   

「出雲教」の北島氏が

ともに大国主の命を主祭神とした宗教法人教団を持っています


明治時代神道事務局の祭神を巡り伊勢派と出雲派の千家の大論争が勃発し

天皇の勅裁を仰いで決着 伊勢派が勝利した

千家は神道事務局を脱退し 「出雲大社教」を設立し 出雲大社と一本化した



遷宮修造


おおよそ60年を経て 修造されてきたようです

神宮のように「常若」ではなく 痛みの激しい部分だけ改修し

その間 主祭神は仮神殿に遷宮されているとのことです

何年ごとに「遷宮」の決まりはないとのことです



神宮と出雲大社 遷宮で大きく報じられていますが 

その根底の精神には大きな隔たりがあるようにも感じます


 















2013年7月11日木曜日

伊藤里き    Ito Riki

伊東 里き(いとう りき)

1865~1950年

三重県英虞郡片田村(現 志摩市志摩町片田)

アメリカ合衆国に渡り 日本人初の助産師資格を取得した女性


渡米後 多くの試練をへて 生活を安定させる

故郷 志摩の片田への送金額が莫大な額になり 「アメリカには金のなる木」がある と

片田村では渡米ブームが起き 里きを頼り多くの村民がアメリカに渡った

片田村はアメリカ村」ともいわれ 

当時の村民4000人のうち 232人が渡米していたという

その送金額は片田村年間予算の3倍にも達したという


明治の女性のたくましさを表し 「片田の英雄」として現在も慕われている

志摩市志摩町和具には「お里きの松」が今もある















2013年7月6日土曜日

上野秀三郎博士と忠犬ハチ公  Dr. Hidesaburou Ueno





上野 英三郎

  1871~1925

日本の農業土木 農業工学の創始者

三重県久居市(現 津市久居町)出身

東京帝国大学 農科大学農学科卒業 現在の農地環境工学の基礎を開く
 

明治32年 政府の耕地整理法を受け全国の耕地整理事業に尽力

当時の農商務省の委託を受け 農業土木技術員養成官の任務につき

その後20年間に渡って3,000人を越える技術者の育成に努めた

博士から指導を受けた技術者は大正12年 関東大震災の復興に重要な役割を果たした



大正14年 大学での講義中に脳溢血で倒れ他界した

愛犬 「ハチ= Hachi」は博士の急死を知らず 長期に渡り渋谷駅で待ち続けた

博士の死後7年ほどたち世間の話題を集めた 上野博士の死後 9年を経て

忠犬ハチ公の銅像が建立された


2013年7月5日金曜日

本居宣長  国文学者 医師  Motoori Norinaga



本居宣長

1730~1801年 

”18世紀最大の日本古典研究家。
伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。
木綿商の家に生まれるが、医者となる。
医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、
また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、
35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する”
本居宣長記念館紹介文より




国文学研究に興味を示し 賀茂真淵らと親交を深め 
当時解読不能とされていた「古事記」の解読に成功
古事記伝」をあらわした

また「鈴」の愛好家としても知られ 自宅を「鈴屋 すずのや」と名付ける






2013年7月3日水曜日

アコヤガイ(真珠貝)の貝柱 Adductor muscle of the pearl oyster (pearl)







三重県志摩地方の冬のグルメ
的矢かきと並び 冬の極うま

真珠貝(アコヤ貝)の貝柱です
11月から2月にかけて 
真珠の口開け作業が行われる

アコヤ貝から真珠を取り出した貝柱を食す
眞珠生産量の減少とともに貴重品になり 値段も上昇を続ける
高級珍味になりつつある

形は勾玉状で小粒
ホタテ 小柱などより味は濃厚
志摩地方や 真珠養殖をしている愛媛県 長崎県などが恩恵を浴す
最近 冷凍品も出回り始めた
三重県 志摩地域のスーパー 鮮魚店で販売

調理法
粗塩を振り 表面のヌメリを擦り取り 水洗いをする

炊き込みご飯 バター焼き しょうが醤油煮 刺身 カラシ酢味噌和え
天ぷら かき揚げ フライ 干物 など

眞珠漬は高級珍味

2013年7月1日月曜日

伊藤 小破   女流日本画家  Mrs.Shouha Ito

伊藤 小破


本名 佐登 sato


1877~1968


宇治土公 貞公 Sadakimi Ujitoko

の長女として生まれる

明治31年 京都に出て画家を志す

森川曽文 谷口香嶠らに師事 谷口より[小破」の号を受く

明治38年に同門の伊藤鷺城と結婚 三人の娘を生む

大正9年 文展で三等賞を受賞 

上村松園 Shouen Uemuraに次ぐ作家として注目を浴びる

日常風俗から歴史 物語の女性を描く画家として名高い

女性ならでは 小破ならではの視点で描かれた絵画に引き込まれる

伊勢市宇治の 猿田彦神社近くに