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2014年10月26日日曜日

平賀亀祐 志摩市が誇る画家



平賀亀祐 ひらが かめすけ


三重県志摩市が誇る西洋画家

志摩市片田の出身


片田は「アメリカ村」ともいわれ

伊藤里き とおなじく移民として両親とともに米国に渡る


多くの苦難を乗り越え画家として大成


常に故郷「志摩」を心に秘め描く絵に反映してきたという

志摩市大王町役場を「平賀亀祐 美術館 記念館」としてオープンした

志摩市が誇る画家である





2013年12月15日日曜日

河村瑞賢と三重県の豪商ゆかりの地 「日本橋」

河村瑞賢 かわむら ずいけん 1617~1699

江戸時代初期の豪商

治山治水 航路開拓などで多くの功績を残す








伊勢国 度会郡東宮村(現 度会郡南伊勢町)出身

貧農の家に生まれるが幼少より知才に秀で

13歳にして江戸に出る

車力から身を起こし 人夫頭になりその才能が認められる

土木請負業や材木商を始め財をなす

明暦の大火で江戸復興に木材が必要と着目

信州木曽の材木を買い占め 江戸に運び

土木の知識と 材木の販売で更なる繁栄を見た



航路開拓


翌年には西廻り航路の開拓と尽力した





治水工事


船の安全航行には立ち寄湊の整備が重要と考え

浚渫や港湾整備にも力を注ぐ

江戸幕府の若年寄 稲葉正休の淀川視察のあと

河村瑞賢が河川改修工事の指揮をとった




江戸時代を代表する政商 豪商で

全国各地で

航路開拓 鉱山開発 灌漑 治水などにも能力を発揮したと

新井白石の「奥羽開運記」「畿内治河記」に記されている

晩年は霊岸島に住まいし 松尾芭蕉とも交流があったという



江戸日本橋界隈は 三重出身の商人が居を構え

大きく発展し後の 三井 三越 小津などの豪商を生む

この三重県縁の地に


オープンし 三重県の情報発信地となった










2013年11月13日水曜日

江戸川乱歩 推理 探偵小説の草分け


江戸川乱歩




江戸川乱歩 えどがわ らんぽ(1894~1965)

本名 平井 太郎

三重県那賀郡名張町(現 名張市)に生まれる

早稲田大学卒業後 多くの職歴を重ね「新青年」に「二銭銅貨」を掲載しデビュー

推理探偵小説を多く世に送り出す

江戸川乱歩の名前は アメリカの文豪 エドガー・アラン・ポーをもじったもの

世に多数の探偵小説を送り出し 名探偵明智小五郎 少年探偵団が活躍する

「怪人二十面相」シリーズは特に有名

作品は多くの映画 漫画などでも映像化されている



推理小説 探偵小説の草分けとして プロデューサーの活動手腕もあり

多くの作家を世に送り出した

私財を基金に「江戸川乱歩賞」を創設し 推理小説家の登竜門を作る

江戸川乱歩像とともに副賞1000万円の賞金は 破格の高額

多くの有名作家を世に送り出す事になった



初代 推理作家協会理事長

1965年 勲三等瑞宝章を受賞




2013年7月11日木曜日

伊藤里き    Ito Riki

伊東 里き(いとう りき)

1865~1950年

三重県英虞郡片田村(現 志摩市志摩町片田)

アメリカ合衆国に渡り 日本人初の助産師資格を取得した女性


渡米後 多くの試練をへて 生活を安定させる

故郷 志摩の片田への送金額が莫大な額になり 「アメリカには金のなる木」がある と

片田村では渡米ブームが起き 里きを頼り多くの村民がアメリカに渡った

片田村はアメリカ村」ともいわれ 

当時の村民4000人のうち 232人が渡米していたという

その送金額は片田村年間予算の3倍にも達したという


明治の女性のたくましさを表し 「片田の英雄」として現在も慕われている

志摩市志摩町和具には「お里きの松」が今もある















2013年7月6日土曜日

上野秀三郎博士と忠犬ハチ公  Dr. Hidesaburou Ueno





上野 英三郎

  1871~1925

日本の農業土木 農業工学の創始者

三重県久居市(現 津市久居町)出身

東京帝国大学 農科大学農学科卒業 現在の農地環境工学の基礎を開く
 

明治32年 政府の耕地整理法を受け全国の耕地整理事業に尽力

当時の農商務省の委託を受け 農業土木技術員養成官の任務につき

その後20年間に渡って3,000人を越える技術者の育成に努めた

博士から指導を受けた技術者は大正12年 関東大震災の復興に重要な役割を果たした



大正14年 大学での講義中に脳溢血で倒れ他界した

愛犬 「ハチ= Hachi」は博士の急死を知らず 長期に渡り渋谷駅で待ち続けた

博士の死後7年ほどたち世間の話題を集めた 上野博士の死後 9年を経て

忠犬ハチ公の銅像が建立された


2013年7月5日金曜日

本居宣長  国文学者 医師  Motoori Norinaga



本居宣長

1730~1801年 

”18世紀最大の日本古典研究家。
伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。
木綿商の家に生まれるが、医者となる。
医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、
また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、
35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する”
本居宣長記念館紹介文より




国文学研究に興味を示し 賀茂真淵らと親交を深め 
当時解読不能とされていた「古事記」の解読に成功
古事記伝」をあらわした

また「鈴」の愛好家としても知られ 自宅を「鈴屋 すずのや」と名付ける






2013年7月1日月曜日

伊藤 小破   女流日本画家  Mrs.Shouha Ito

伊藤 小破


本名 佐登 sato


1877~1968


宇治土公 貞公 Sadakimi Ujitoko

の長女として生まれる

明治31年 京都に出て画家を志す

森川曽文 谷口香嶠らに師事 谷口より[小破」の号を受く

明治38年に同門の伊藤鷺城と結婚 三人の娘を生む

大正9年 文展で三等賞を受賞 

上村松園 Shouen Uemuraに次ぐ作家として注目を浴びる

日常風俗から歴史 物語の女性を描く画家として名高い

女性ならでは 小破ならではの視点で描かれた絵画に引き込まれる

伊勢市宇治の 猿田彦神社近くに











2013年6月25日火曜日

大黒屋光太夫 ロシア漂流記 Daikokuya Koudayu












大黒屋 光太夫(1751-1828)

江戸時代後期の廻船の船頭
伊勢國 白子(現 鈴鹿市)から江戸へ向かう途中 
嵐に遭いロシア アリューシャン列島の「アムチトカ島」に漂着
そこで4年間を過ごし その間に「ロシア語」を習得

毛皮の買い付けに来ていたロシア人とともに ロシア本土に渡る
日本への帰国を願いつつ ツテや協力者の支援を得ながら
皇帝エカチェリーナ2世に謁見が叶い
帰国を願い出る

エカチェリーナ2世の許可が下り
「漂流民返還」の名目で当時鎖国下の日本への帰国が叶った

漂流以来 実に9年半の歳月を要したという
17人の船員仲間のうち1人は漂流中に
11人はアムチトカ島漂着やロシア本土で死亡
残る5人の内2人は ロシア国内に残留
光太夫ほか2人が「根室」に到着 帰国できた

江戸に送られ「漂流民」として軟禁状態に置かれたらしい
帰国後は豊富な見聞を役立て 「蘭学」におおきな寄与をした


作家の 「井上 靖」により
「おろしや国酔夢譚」として発表され
1992年に 佐藤純彌監督で映画化された

主演 大黒屋光太夫に「緒形拳」
    庄蔵 - 西田敏行
    小市 - 川谷拓三ほか出演










三重県鈴鹿市

大黒屋光太夫記念館



ウィキペディア参照

2013年5月31日金曜日

的矢牡蠣と佐藤忠勇   Dr. Tadao Sato









三重県ブランド 第一号認定品
冬のグルメ
三重県志摩市磯部町的矢

日本の近代養蠣で忘れてならないのがこの方
カキ養殖の先駆者
佐藤忠勇博士である (1887~1984)

大正八年東北帝大(現東北大)の研究員として当時本格化し始めていた
真珠養殖の水質関係の研究のため的矢(まとや)現在の志摩市磯部町的矢 に赴いた
見瀬辰平と真円眞珠研究をしたが失敗 その後真珠養殖からは身を引いた

佐藤博士は牡蠣に着目し その研究に没頭した
的矢は三本の川が湾にそそぎプランクトンの発生 水温 塩分潮流などが
牡蠣養殖に最適と判断した

ここで貝殻についた稚貝を海中につるす「垂下式牡蠣養殖法」を開発した
通常2~3年を要した時間が1年に短縮される画期的技術であった  
筏を組み大規模に養殖が可能となり
博士はその普及に全国を飛び歩いたとある
だが博士を一躍有名にしたのは「流水海水浄化装置」による無菌カキの生産に成功
し全国にその方法が採用され現在の「清浄無菌カキ」を作り出したこの人の恩恵で
ある


カキの清浄化への研究

カキを食することに起因する食中毒症状は多くの原因があり一部まだ解明されていない
主に貝毒 細菌があげられるが近年ノロウイルスの名も挙がってきている
博士の開発した方法はよくご存知の方もみえるとは存じますが
念のため

水揚げしたばかりのカキはその体内に多くの不純物を蓄積している
カキを清浄用プールにいれ紫外線で殺菌した海水を流すこと20時間以上
清浄海水をカキの消化器官を通過させることで除去したものです



その後昭和30年「オゾン 紫外線併用殺菌海水浄化装置」の特許を取得
清浄無菌牡蠣の技術を確立し 「的矢清浄無菌牡蠣」のブランド力を高めた
それ以前は塩素を用い殺菌などといういささか乱暴な方法もとられていたようです
全国的にこの清浄滅菌カキの手法が取り入れられ
安心して食べられるようになった
生前何度か博士にお会いした
「学問をいかに産業化するか」が口癖だった


現在的矢には佐藤養殖場があり 年間生産は殻つき200万個 剥き身7000kg.を
出荷している 増産要求は多いがしかし 頑としてその量を守っている
品質や味を維持するに最適の量だという
鳥羽市浦村の牡蠣とは格の違う逸品
パールロード沿線上浦村地区には「牡蠣食べ放題」の看板が並ぶが
佐藤の牡蠣(的矢かき)はこのような行為はしない

「的矢かきフルコース」を出す料理旅館は数軒あり
昼食で5000円くらいからだとおもう
「佐藤の牡蠣」はブランド品なのだ
二年仕込みの牡蠣の塩辛「海生味」は珍味


佐藤忠勇(さとう ただお)
東京本所生まれ(1887~1984)
1962年 藍綬褒章
1965年 勲4等叙勲
1978年 日本水産学会 名誉会長
1984年 4月1日 97歳で天寿を全うされた




的矢牡蠣 佐藤養殖場

2013年5月30日木曜日

真円眞珠の発明者は?    Who invented the pearls?


真円眞珠  しんえんしんじゅ


真珠は古くから珍重されてきた
「海」から産出される宝石である
偶然の産物として稀少価値が高く
薬としての使用例が多い
かのクレオパトラも愛したことで有名だ
天然真珠は
石や寄生虫が貝の外套膜と共に体内に取り込まれて
真珠層を形成しており 形も大きさも様々である
現在のように丸い真珠が生産できるには
以下に記す方々の功績による

真珠といえば「ミキモト」の名がつとに有名だが
彼は大規模に真珠養殖をし
真珠養殖産業を商業ベースにのせた
功労者として地元では捉えられている
1905年 明治天皇に拝謁し
「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と
大見得を切ったことは有名な話だ

彼も長年真珠養殖の研究に没頭し多くの辛酸をなめてきた
アコヤ貝の養殖特許権を持ち、この権利を盾に真珠研究者への妨害や提訴をしていたとの話もある
1893年 志摩神明浦においてアコヤ貝を用いた「半円真珠」の養殖に成功した
しかし「真円真珠」への道のりは遠く、多くの研究者がこの難問に挑戦しては夢破れて去ったと聞く

                               見瀬辰平


1907年 当時の的矢村渡鹿野で「見瀬辰平
アコヤ貝の外套膜と真珠の元となる真円の貝で作った“核”を
一緒にアコヤ貝の体内に挿入する技術やその器具を開発し「特許権」を取得した

                              西川藤吉

同じ頃東京帝大から農務省の技官として養殖真円真珠の研究をしていた
西川藤吉」も真円真珠形成の技術を確立していた
彼らの技術が挿入された”核”の表面に真珠層を形成し
「真円真珠」を完成させることを証明してみせた
両者の間で特許権の「先願」か「先発明」かで争議となり
1908年 西川藤吉名での特許取得とし 
のちに二人でこの権利の共有と言う形で契約をし決着させた

見瀬辰平としては不満だらけの決着となったが
この裏には「西川藤吉が病気で死期が迫っており、紛争を長引かせては
今後の真珠養殖業界に影響を及ぼす」と
後に発見された見瀬辰平の手記に記されていた

私事だが我祖父も石川県能登から来て 見瀬辰平の指導を受け
「真円真珠」研究の手助けをしていたと父から聞いたことがある

1920年 見瀬は佐藤忠男らと真珠養殖の会社を設立するが失敗し
佐藤忠男は的矢かきの研究にはいった
尚、佐藤忠男については別の場で紹介する

西川は御木本幸吉の次女と結婚していて彼の死後特許権は息子に受け継がれた
西川 見瀬が発明発展させた「真円真珠養殖技術」は御木本の手によって開花し
今や「世界の女性の首をしめている」日本が誇る海からの宝石になった

                             御木本幸吉

「真円真珠」発明は西川藤吉 見瀬辰平とし 
その振興功労者として御木本幸吉を挙げ
彼らの顕彰碑とアコヤ貝の供養塔が
志摩市阿児町賢島英虞湾を見下ろす「円山公園」に建っている

2013年5月29日水曜日

川喜田半泥子  かわきた はんでいし  三重偉人伝    Kawakita Handeishi


川喜田半泥子



川喜田半泥子(1878-1963)
本名 川喜田久太夫政令=かわきた きゅうだゆう まさのり
号 半泥子(禅の影響からか)

三重県の陶芸家 実業家 政治家
生家は寛永年間から江戸大伝馬町に出店する木綿太物問屋で豪商
父が亡くなり1歳で家督を相続16代当主となる 母は生家へ戻される
祖母 政により育てられ帝王学を学ぶ
現在の三重県立津高等学校卒業後「百五銀行」に入行
三重県人なら知らないものはない「百五銀行」の頭取を長く務めた


「百五銀行」は津の元藤堂藩士が創立したが商いに疎い武士の経営は
度々危機を招いた 川喜田家が経営に参画しこんにちを築いた
半泥子も長きにわたり頭取を務め 傍ら芸術にあそんだ
特に「茶の湯」を好みそれに関する作品は多い
「東の北大路魯山人 西の半泥子」と並び称されるがその人となりを知る人は少ない

頑固者の廬山人に比して半泥子は「慶世羅々々」と自由人



茶目っ気たっぷりで英語を漢字に置き換えることが好きだったらしく
「喊阿厳」
「大夢出門」
「愛夢倶楽通志友」
などと書いて 楽しんでいた節がある どう読むかはクイズにしておきましょう

芸術振興のため私財を投じ石水博物館を設立
また自宅のある千歳山には登り窯を作ったが のちに長谷山に移された
弟子の坪島土平に受け継がれている
坪島も師 半泥子への弟子入りから半泥子とのふれあいをこのホームページに記している

「陶芸は生涯シロウト」を貫き
生涯の作品は3万点にも及ぶと言われているが市販はせず
親しい人に与えていたというから 何処かの蔵でホコリをかぶっているかもしれません


〒514-0821 三重県津市垂水3032番地18

TEL 059-227-5677

2013年5月26日日曜日

北海道の名付け親 松浦 武四郎   三重県偉人伝    Matuura Takeshiro

北海道の名付け親 松浦武四郎

北海道はなぜ ほっかいどう と言うのか?

松浦武四郎  号は 北海道人(ほっかい・どうじん)
三重県松阪市出身 1818年3月12日(文化15年2月6日) - 1888年2月10日)

蝦夷(えぞ) ヤマト王権により異族視され 北方に追いやられた人たち
ヤマトが成熟するに連れ 北に追いやられ
海をわたりいまの北海道に住んだという
その人々が住んだ地 蝦夷地

幕末から明治にかけて活躍した探検家 蝦夷地 樺太 択捉にまで調査に赴き
明治政府は蝦夷地に明るい松浦を「開拓判官」として雇用した

とくに アイヌとの親交を深め アイヌ語の理解者でもあった
アイヌの長老から「カイ」という言葉が 「この地に生まれた者」という意味と教えられる
ほく=北 北の大地 蝦夷地
カイ=海 他にも候補があったが海の字を当てる この地に生まれた者
どう=道 東海道 南海道 道筋 行政区分
 蝦夷地を「北海道」と政府に進言
新政府は 明治2年 蝦夷地を「北海道」と呼ぶことに決定する

松浦武四郎はアイヌ語をもとに道内各地の地名を決めていったとあります


アイヌとともに 仲良く暮らす 北の大地を夢見て
「北海道」の名を思いを込めてつけた

三重県が誇る偉人の一人である

松浦武四郎 記念館
〒515-2109 
三重県松阪市小野江町383