真円眞珠 しんえんしんじゅ
真珠は古くから珍重されてきた
「海」から産出される宝石である
偶然の産物として稀少価値が高く
薬としての使用例が多い
かのクレオパトラも愛したことで有名だ
天然真珠は
石や寄生虫が貝の外套膜と共に体内に取り込まれて
真珠層を形成しており 形も大きさも様々である
現在のように丸い真珠が生産できるには
以下に記す方々の功績による
真珠といえば「ミキモト」の名がつとに有名だが
彼は大規模に真珠養殖をし
真珠養殖産業を商業ベースにのせた
功労者として地元では捉えられている
1905年 明治天皇に拝謁し
「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と
大見得を切ったことは有名な話だ
彼も長年真珠養殖の研究に没頭し多くの辛酸をなめてきた
アコヤ貝の養殖特許権を持ち、この権利を盾に真珠研究者への妨害や提訴をしていたとの話もある
1893年 志摩神明浦においてアコヤ貝を用いた「半円真珠」の養殖に成功した
しかし「真円真珠」への道のりは遠く、多くの研究者がこの難問に挑戦しては夢破れて去ったと聞く
見瀬辰平
アコヤ貝の外套膜と真珠の元となる真円の貝で作った“核”を
一緒にアコヤ貝の体内に挿入する技術やその器具を開発し「特許権」を取得した
一緒にアコヤ貝の体内に挿入する技術やその器具を開発し「特許権」を取得した
西川藤吉
同じ頃東京帝大から農務省の技官として養殖真円真珠の研究をしていた
「西川藤吉」も真円真珠形成の技術を確立していた
彼らの技術が挿入された”核”の表面に真珠層を形成し
「真円真珠」を完成させることを証明してみせた
両者の間で特許権の「先願」か「先発明」かで争議となり
1908年 西川藤吉名での特許取得とし
のちに二人でこの権利の共有と言う形で契約をし決着させた
見瀬辰平としては不満だらけの決着となったが
この裏には「西川藤吉が病気で死期が迫っており、紛争を長引かせては
今後の真珠養殖業界に影響を及ぼす」と
後に発見された見瀬辰平の手記に記されていた
この裏には「西川藤吉が病気で死期が迫っており、紛争を長引かせては
今後の真珠養殖業界に影響を及ぼす」と
後に発見された見瀬辰平の手記に記されていた
私事だが我祖父も石川県能登から来て 見瀬辰平の指導を受け
「真円真珠」研究の手助けをしていたと父から聞いたことがある
1920年 見瀬は佐藤忠男らと真珠養殖の会社を設立するが失敗し
佐藤忠男は的矢かきの研究にはいった
尚、佐藤忠男については別の場で紹介する
西川は御木本幸吉の次女と結婚していて彼の死後特許権は息子に受け継がれた
西川 見瀬が発明発展させた「真円真珠養殖技術」は御木本の手によって開花し
今や「世界の女性の首をしめている」日本が誇る海からの宝石になった
御木本幸吉
「真円真珠」発明は西川藤吉 見瀬辰平とし
その振興功労者として御木本幸吉を挙げ
彼らの顕彰碑とアコヤ貝の供養塔が
志摩市阿児町賢島英虞湾を見下ろす「円山公園」に建っている