2013年5月31日金曜日

御塩殿神社  御塩殿祭 二見ヶ浦  125社めぐり Mishiodonojinjya







「御塩殿」=みしおどの

粗塩を焼き固める神事が行われる作業所で「御塩殿神社」はこの左に鎮座しています





10月6日 伊勢市二見の「御塩殿神社」 =みしおどのじんじゃ へまいりました
塩は食生活に欠かせない調味料であり 古来より穢れを清める作用があるとされてきた
消毒の作用もありけがれを嫌う神道と結びついたとも考えられます
また海水から採ることから海の守り神「塩土老翁」=しおつじのおじ とされ 
海の安全 製塩の神であるともいわれています
全国各地に鹽竈神社があり塩と日本人のつながりの深さを感じます


5日間にわたり伊勢神宮におそなえする
「御塩」の焼き固めが行われるとテレビで見て早速でかけてみました
焼き固められた塩は「堅塩」といわれる
ここでの「塩作り」は804年からの記録しか無くおそらくそれ以前から行われていたと推測できます 
「御塩殿神社」の場所は二見興玉神社(夫婦岩のある神社)から海岸沿いに伊勢の方向へ行く 
二見中学校の隣に位置します


「御塩殿神社」 伊勢神宮所管社



日本での塩作りの起源は海藻を焼いた灰から採った「藻塩」といわれております
御塩殿神社から伊勢に向かう五十鈴川の河口近くに
「御塩浜」という塩田があり海水を濃縮する作業が夏の土用に行われるそうです


御塩浜(ネットよりお借りしています)




塩分濃度を高めた塩は御塩殿神社裏手の「御塩汲入所」におさめられます
その後 「御塩焼入所」で煮詰めて粗塩を作ります

10月5日から「御塩殿」において粗塩の焼き固めをおこないます



粗塩を素焼きでできた三角錐の容器にシャモジで詰め込み

竈の上に並べ火を入れ焼き固めていきます
1日約20個ほど作り 5日で100個を造り上げていくのだそうです

太平洋に面し風や波が強いところですので松を植え 防風 防砂の役目を果たします



















神社の裏手は二見浦海水浴場で夏の間は海水浴客でたいへん賑わいますね

この時期 浅瀬を利用して「海苔養殖」あおさ海苔の網がたくさん張られます
御塩殿祭は塩作りや塩に関わる職業の方々の隆盛と感謝 安全をねがうお祭りでもあり
全国から製塩業界の方の参拝があります

二見海岸からは「ちょんまげワールド」の安土桃山城も見ることが出来ます

的矢牡蠣と佐藤忠勇   Dr. Tadao Sato









三重県ブランド 第一号認定品
冬のグルメ
三重県志摩市磯部町的矢

日本の近代養蠣で忘れてならないのがこの方
カキ養殖の先駆者
佐藤忠勇博士である (1887~1984)

大正八年東北帝大(現東北大)の研究員として当時本格化し始めていた
真珠養殖の水質関係の研究のため的矢(まとや)現在の志摩市磯部町的矢 に赴いた
見瀬辰平と真円眞珠研究をしたが失敗 その後真珠養殖からは身を引いた

佐藤博士は牡蠣に着目し その研究に没頭した
的矢は三本の川が湾にそそぎプランクトンの発生 水温 塩分潮流などが
牡蠣養殖に最適と判断した

ここで貝殻についた稚貝を海中につるす「垂下式牡蠣養殖法」を開発した
通常2~3年を要した時間が1年に短縮される画期的技術であった  
筏を組み大規模に養殖が可能となり
博士はその普及に全国を飛び歩いたとある
だが博士を一躍有名にしたのは「流水海水浄化装置」による無菌カキの生産に成功
し全国にその方法が採用され現在の「清浄無菌カキ」を作り出したこの人の恩恵で
ある


カキの清浄化への研究

カキを食することに起因する食中毒症状は多くの原因があり一部まだ解明されていない
主に貝毒 細菌があげられるが近年ノロウイルスの名も挙がってきている
博士の開発した方法はよくご存知の方もみえるとは存じますが
念のため

水揚げしたばかりのカキはその体内に多くの不純物を蓄積している
カキを清浄用プールにいれ紫外線で殺菌した海水を流すこと20時間以上
清浄海水をカキの消化器官を通過させることで除去したものです



その後昭和30年「オゾン 紫外線併用殺菌海水浄化装置」の特許を取得
清浄無菌牡蠣の技術を確立し 「的矢清浄無菌牡蠣」のブランド力を高めた
それ以前は塩素を用い殺菌などといういささか乱暴な方法もとられていたようです
全国的にこの清浄滅菌カキの手法が取り入れられ
安心して食べられるようになった
生前何度か博士にお会いした
「学問をいかに産業化するか」が口癖だった


現在的矢には佐藤養殖場があり 年間生産は殻つき200万個 剥き身7000kg.を
出荷している 増産要求は多いがしかし 頑としてその量を守っている
品質や味を維持するに最適の量だという
鳥羽市浦村の牡蠣とは格の違う逸品
パールロード沿線上浦村地区には「牡蠣食べ放題」の看板が並ぶが
佐藤の牡蠣(的矢かき)はこのような行為はしない

「的矢かきフルコース」を出す料理旅館は数軒あり
昼食で5000円くらいからだとおもう
「佐藤の牡蠣」はブランド品なのだ
二年仕込みの牡蠣の塩辛「海生味」は珍味


佐藤忠勇(さとう ただお)
東京本所生まれ(1887~1984)
1962年 藍綬褒章
1965年 勲4等叙勲
1978年 日本水産学会 名誉会長
1984年 4月1日 97歳で天寿を全うされた




的矢牡蠣 佐藤養殖場

2013年5月30日木曜日

真円眞珠の発明者は?    Who invented the pearls?


真円眞珠  しんえんしんじゅ


真珠は古くから珍重されてきた
「海」から産出される宝石である
偶然の産物として稀少価値が高く
薬としての使用例が多い
かのクレオパトラも愛したことで有名だ
天然真珠は
石や寄生虫が貝の外套膜と共に体内に取り込まれて
真珠層を形成しており 形も大きさも様々である
現在のように丸い真珠が生産できるには
以下に記す方々の功績による

真珠といえば「ミキモト」の名がつとに有名だが
彼は大規模に真珠養殖をし
真珠養殖産業を商業ベースにのせた
功労者として地元では捉えられている
1905年 明治天皇に拝謁し
「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と
大見得を切ったことは有名な話だ

彼も長年真珠養殖の研究に没頭し多くの辛酸をなめてきた
アコヤ貝の養殖特許権を持ち、この権利を盾に真珠研究者への妨害や提訴をしていたとの話もある
1893年 志摩神明浦においてアコヤ貝を用いた「半円真珠」の養殖に成功した
しかし「真円真珠」への道のりは遠く、多くの研究者がこの難問に挑戦しては夢破れて去ったと聞く

                               見瀬辰平


1907年 当時の的矢村渡鹿野で「見瀬辰平
アコヤ貝の外套膜と真珠の元となる真円の貝で作った“核”を
一緒にアコヤ貝の体内に挿入する技術やその器具を開発し「特許権」を取得した

                              西川藤吉

同じ頃東京帝大から農務省の技官として養殖真円真珠の研究をしていた
西川藤吉」も真円真珠形成の技術を確立していた
彼らの技術が挿入された”核”の表面に真珠層を形成し
「真円真珠」を完成させることを証明してみせた
両者の間で特許権の「先願」か「先発明」かで争議となり
1908年 西川藤吉名での特許取得とし 
のちに二人でこの権利の共有と言う形で契約をし決着させた

見瀬辰平としては不満だらけの決着となったが
この裏には「西川藤吉が病気で死期が迫っており、紛争を長引かせては
今後の真珠養殖業界に影響を及ぼす」と
後に発見された見瀬辰平の手記に記されていた

私事だが我祖父も石川県能登から来て 見瀬辰平の指導を受け
「真円真珠」研究の手助けをしていたと父から聞いたことがある

1920年 見瀬は佐藤忠男らと真珠養殖の会社を設立するが失敗し
佐藤忠男は的矢かきの研究にはいった
尚、佐藤忠男については別の場で紹介する

西川は御木本幸吉の次女と結婚していて彼の死後特許権は息子に受け継がれた
西川 見瀬が発明発展させた「真円真珠養殖技術」は御木本の手によって開花し
今や「世界の女性の首をしめている」日本が誇る海からの宝石になった

                             御木本幸吉

「真円真珠」発明は西川藤吉 見瀬辰平とし 
その振興功労者として御木本幸吉を挙げ
彼らの顕彰碑とアコヤ貝の供養塔が
志摩市阿児町賢島英虞湾を見下ろす「円山公園」に建っている

2013年5月29日水曜日

川喜田半泥子  かわきた はんでいし  三重偉人伝    Kawakita Handeishi


川喜田半泥子



川喜田半泥子(1878-1963)
本名 川喜田久太夫政令=かわきた きゅうだゆう まさのり
号 半泥子(禅の影響からか)

三重県の陶芸家 実業家 政治家
生家は寛永年間から江戸大伝馬町に出店する木綿太物問屋で豪商
父が亡くなり1歳で家督を相続16代当主となる 母は生家へ戻される
祖母 政により育てられ帝王学を学ぶ
現在の三重県立津高等学校卒業後「百五銀行」に入行
三重県人なら知らないものはない「百五銀行」の頭取を長く務めた


「百五銀行」は津の元藤堂藩士が創立したが商いに疎い武士の経営は
度々危機を招いた 川喜田家が経営に参画しこんにちを築いた
半泥子も長きにわたり頭取を務め 傍ら芸術にあそんだ
特に「茶の湯」を好みそれに関する作品は多い
「東の北大路魯山人 西の半泥子」と並び称されるがその人となりを知る人は少ない

頑固者の廬山人に比して半泥子は「慶世羅々々」と自由人



茶目っ気たっぷりで英語を漢字に置き換えることが好きだったらしく
「喊阿厳」
「大夢出門」
「愛夢倶楽通志友」
などと書いて 楽しんでいた節がある どう読むかはクイズにしておきましょう

芸術振興のため私財を投じ石水博物館を設立
また自宅のある千歳山には登り窯を作ったが のちに長谷山に移された
弟子の坪島土平に受け継がれている
坪島も師 半泥子への弟子入りから半泥子とのふれあいをこのホームページに記している

「陶芸は生涯シロウト」を貫き
生涯の作品は3万点にも及ぶと言われているが市販はせず
親しい人に与えていたというから 何処かの蔵でホコリをかぶっているかもしれません


〒514-0821 三重県津市垂水3032番地18

TEL 059-227-5677

2013年5月26日日曜日

北海道の名付け親 松浦 武四郎   三重県偉人伝    Matuura Takeshiro

北海道の名付け親 松浦武四郎

北海道はなぜ ほっかいどう と言うのか?

松浦武四郎  号は 北海道人(ほっかい・どうじん)
三重県松阪市出身 1818年3月12日(文化15年2月6日) - 1888年2月10日)

蝦夷(えぞ) ヤマト王権により異族視され 北方に追いやられた人たち
ヤマトが成熟するに連れ 北に追いやられ
海をわたりいまの北海道に住んだという
その人々が住んだ地 蝦夷地

幕末から明治にかけて活躍した探検家 蝦夷地 樺太 択捉にまで調査に赴き
明治政府は蝦夷地に明るい松浦を「開拓判官」として雇用した

とくに アイヌとの親交を深め アイヌ語の理解者でもあった
アイヌの長老から「カイ」という言葉が 「この地に生まれた者」という意味と教えられる
ほく=北 北の大地 蝦夷地
カイ=海 他にも候補があったが海の字を当てる この地に生まれた者
どう=道 東海道 南海道 道筋 行政区分
 蝦夷地を「北海道」と政府に進言
新政府は 明治2年 蝦夷地を「北海道」と呼ぶことに決定する

松浦武四郎はアイヌ語をもとに道内各地の地名を決めていったとあります


アイヌとともに 仲良く暮らす 北の大地を夢見て
「北海道」の名を思いを込めてつけた

三重県が誇る偉人の一人である

松浦武四郎 記念館
〒515-2109 
三重県松阪市小野江町383 

赤福の洋菓子 和菓子    Akafuku

http://success403ryokouki.blogspot.jp/











白豆を使った生クリームたっぷりのロールケーキや
贅沢な味わいのチーズケーキなど
ちょっとおしゃれなお菓子が待っています
どれもここでしか買えません



伊勢神宮界隈の動画
http://www.youtube.com/watch?...




五十鈴茶屋HP

2013年5月25日土曜日

はいからさん おかげ横丁の洋食屋    Restaurant Haikarasan










ちょっと寄り道参拝

饗土橋姫神社と宇治神社








饗土橋姫神社から見た宇治橋 宇治橋の擬宝珠に刻まれた文字
「御裳濯川 御橋 元和五年三月」
御裳濯川(みもすそがわ)=五十鈴川のこと
倭姫命がこの川で着衣の裾を洗ったという言い伝えから
元和5年=1619年製造の擬宝珠



宇治神社にある
「足神さん」へ
むかし 神宮参拝が無事叶い また健脚でふるさとへ帰れますようにとの願いから設けられたとか 「撫石」が置かれ石を撫でて自分足の悪いところを摩ると 
  石が身代わりになり穢れが取れるとか?



さて今回の目的は昼食
おかげ横丁内で洒落た洋館の二階にある

「はいからさん」

はいからさんやミキモト カメヤマローソクなどが入る建物は
鹿鳴館を設計した ジョサイア・コンドルの手による「六華苑」を模したもの
日本の山林王 三重県桑名市の諸戸清六 旧居宅群にある洋館で
現在「六華苑」として公開されている

「御木本真珠」や「白銀屋」などの貴金属店の上にあるので
横丁内の他の店舗とは立地が違う

2階にあることで見過ごされがちだがこの店
「ハヤシライス」「カレーライス」は通の間でも評判の味
今回はこの店で一番高価な松阪牛使用のハンバーグライスを注文してみた 
娘はエビフライ 婿殿は ポークカツを選んだ
それぞれその味を堪能した


ちょっとふくよかな「おかみさん」の素晴らしい笑顔と
かわいい服を着たフロア係の方のてきぱきしたサービスもいい

2階から眺める横丁の風情も一興で俯瞰で見てみるのもいいかも
太鼓櫓 朝熊山方向




「はいからさん」から「味の館」「海老丸」方向を見る






伊勢志摩名物などで埋め尽くされている「おかげ横丁」だが
視点を変えて「洋食」を楽しんでみるのもおすすめです

2013年5月19日日曜日

自家焙煎 なかむら珈房  伊勢河崎  Nakamura Coffee








伊勢市河崎は室町時代から開かれた伊勢の海の玄関口

伊勢大湊港から勢田川沿いに立ち並ぶ倉庫群

伊勢のだいどこ=台所として

伊勢の民や伊勢神宮を訪れる人のための物資の供給源であったことを彷彿とさせる 

今は海運から陸運に様変わりし当時の面影はないが
 
伊勢神宮の発展と共に成長してきた問屋街でもある


 
当時の面影そのままに

伊勢河崎商人館中心に町並み保存や

かげ横丁のような人工的でない庶民の生活感あふれた佇まいを残す街です



このすこしはずれに 自宅を改装し珈琲の販売と珈琲店を営む

なかむら珈房」があ


ご主人の中村さんはコーヒーマイスターの資格を有し
 
伊勢市の市民講座や五十鈴塾でも講師をしておられる方


この珈琲店にメニューはない 水も砂糖もミルクも出てこない

客が自分の好みの味を告げると

ご主人は豊富な経験からストレートやブレンドを出してくれる ブラックコーヒー専門店

手入れされた庭園に面したクラシカルな佇まいの部屋で珈琲をいただく




河崎の古い町並を散策したあと立ち寄り香り高い珈琲を飲むのには最敵の場所

ほんとは秘密にしておきたかった珈琲店です




なかむら珈

伊勢市河崎2-27-1

2013年5月17日金曜日

斎王(さいおう) その制度と歴史にふれる Saiou







2011年1月22日


天武天皇時代から660年間にわたり 天皇に代わり伊勢神宮にお仕えした皇女達

歴代60人余にわたる
斎王たちの歴史文化 生活を探りまた体験もできる施設群



斎宮(さいくう)
は 斎王が居住した宮殿と言われ
斎王(さいおう)
天武天皇が壬申の乱(じんしんのらん)に勝利し 
その感謝の意を伊勢神宮に奉じたことから始まると言われる制度で 
天皇に代わり「神宮」にお仕えし 未婚の皇女から選ばれたとあります
約660年間 60人以上の斎王が存在したと伝えられている
恋や結婚も許されずひたすら神にご奉仕する一生
解任は天皇の崩御か身内の喪とされた
歴代の斎王


斎宮歴史博物館
今も地下に眠る斎王宮跡の上に特殊な工法で建設された博物館で
昭和45年から現在も続けられている遺構の発掘調査や出土品の展示 
研究などを紹介しています



館内展示物は出土品を中心に斎王の「衣食住」をわかりやすく展示公開されている


復元資料 展示品の数々


当時の食べ物を復元


遺構調査に基づくジオラマ

また映像でも
「斎王群行」
「今よみがえる幻の宮」
「斎宮をあるく」などが上映され視覚的にも歴史 制度や斎宮関連施設の紹介が行われています

データ
515-0325 三重県多気郡明和町竹川503   
TEL 0596-52-3800(代) FAX 0596-52-3724
月曜定休 入館料 大人¥330


いつきのみや歴史体験館


斎宮歴史博物館からほど近い近鉄斎宮駅前にある
斎王の一番華やかかりし時代 「平安時代」を中心に斎王の衣食住を体験できる施設
展示体験棟と学習セミナー棟からなり
年間を通じ多くの体験プログラムが用意されている


平安王朝絵巻さながらの「十二単試着体験」
食事やお菓子を作る体験
平安時代の文化教養のセミナーなど
体験や学習を通じて斎王やその歴史に関心を持ってもらいたい意味が込められている


時代装束試着体験

セミナー棟から庭を望む




斎宮を再現した1/10ミニチュアもありました


中でも一番の人気は
平安装束試着体験(有料)
平安装束婚礼体験(有料)
予約制

施設データ
〒515-0321
三重県多気郡明和町斎宮3046番地25
TEL.0596-52-3890
FAX.0596-52-7089
・開館時間:午前9時30分~午後5時
    (但し、入館は午後4時30分まで)
・休館日:月曜日(休日の場合は翌日)
    祝日の翌日、年末

また 毎年6月第一土曜 日曜には
斎王まつり
がおこなわれ 平安絵巻が再現されます


YouTube
2009年 斎王まつりのようす


電車利用の場合
伊勢市と松阪市の中間点に位置し 近鉄特急も停車しません
松阪または伊勢市から各駅停車の電車利用となります

神宮のおはらい町やおかげ横丁に関心が向けられていますが
皇室関係の女性にもこういう制度があり
恋も捨てて 神にお仕えしなければならなかった
女性たちの喜び悲しみに思いを馳せてもいいのでは

倭姫命 伊勢神宮創祀の神 [美味し国]の秘密 Yamatohimenomikoto








皇大神宮 別宮倭姫宮 125社巡り

伊勢で仕事を終え帰路 倉田山に立ち寄った
この倉田山丘陵は伊勢の歴史 文化 芸術 学術の集合地帯でもあり 
神宮徴古館 神宮農業館 遷宮美術館 皇學館大學などが点在している
倉田山に「倭姫宮」があります

倭姫宮(やまとひめのみや)
第11代天皇垂仁天皇第4皇女で日本武尊の叔母とされております
天照大神の御杖代として 大和国から伊勢にご鎮座奉り 伊勢神宮創祀の神
倭姫命はアマテラスをお祀りする最良の地をもとめ 伊賀 近江 美濃 尾張を旅し
伊勢の国に入った ここでアマテラスから神託があり ここに鎮座すると仰せられ

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)
                                   垂仁天皇25年3月丙申(10日)条
伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり
辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう、ということである。 ”  以上Wikipediaより

このご神託のことばより 「うましくに伊勢志摩」 を名乗っております
五十鈴川上流の現在の地に神宮がお祀りされているのはこういう理由があるのです


三種の神器(みくさのかむだから)
八咫鏡(やたのかがみ)伊勢神宮内宮 ご神体
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)  皇居剣璽の間
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)  熱田神宮ご神体
天孫降臨の際天照大神から瓊瓊杵尊につかわされた三種の宝物
皇位継承の証とされてきた
八咫鏡の「咫=アタ」は円周を表す単位 0.8尺 八咫は直径2尺 46センチの円鏡という

宝鏡奉斎の神勅

吾が児(みこ)、此の宝鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、
                          まさに吾(あれ)を視るがごとくすべし
ともに床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共ひとつにして
                           斎鏡(いはひのかがみ)と為すべし

という天照大御神のお言葉があり おおまかに言えば
「この鏡を私の魂だと思い 私に仕える気持ちで大切にすること 鏡と共に生活し
神の子孫であることに恥ない 気高い気持ちで政治に取り組んで欲しい 」
といえるでしょうか


鏡は
自分自身が映し出されます 神の御前にいずるとき 身なりをととのえ
穢れのない正しい姿ができているか うつし出してみよ」
あなたのその姿を見て くにたみ(國民)は あなたに信頼を寄せるのです

このことばを今の政治家達に贈りたいと思います


全国にある神社のご神体がほとんど「かがみ」である理由はここにあります
地元の氏神様で「神明神社」「天祖神社」といわれるお社は伊勢神宮直系
とされ神社本庁の調査では全国に4425社あるそうです
氏神様をお詣りすれば伊勢神宮にお詣りしたことになりますね

まつりごと(祭事)神を祀り祭祀を行うこと→古代は神政一致で神を祀ることすなわち
政治であり 統治者が神を祀る姿を見せることで一体感や人心を掌握したといわれる
祭事=政事(まつりごと) と同意でつかわれる





さて 倭姫宮は内宮と外宮を結ぶ中間点に位置し
倉田山というアカデミックな地区にあります
参拝への道は御幸道路に面した方と 神宮徴古館前にも通じております
自動車でお越しの場合は神宮徴古館などの駐車場が利用できます


参道を入ると木立も押し迫り 神域らしさにあふれます
しばらく玉砂利道をすすむと階段があり 昇った左に手水舎があります
               



ここで潔斎し 拝殿に向かいます
近くの幼稚園児でしょうか 保母さん達に先導され私より先に参拝を済ましていたようです
すれちがう園児 保母さんから「こんにちは~」のかわいい声のごあいさつ
おもわずほほえみ 清々しさに一層身の引き締まる感がありました
もちろん私も「こんにちは~」

            



内宮の別宮なので遷宮もおこなわれます

倭姫宮 拝殿



遷宮御敷地



宿衛社



徴古館側参拝路



神宮徴古館



御幸道路
「徴古館前」三重交通バス停付近
前方の瓦葺の門は「神宮文庫」入口
この奥に皇學館大学 高校 中学があります
皇學館大學と國學院大學で 神社本庁の神職の資格が取得できるため 全国の神社から
学生が集まってきます



倭姫命は神宮を伊勢の地に導かれ 祭祀 神職 神道の基礎を確立された方ですが
その功績を讚えるお社がないことに心を痛め
1912年 大正元年  帝国議会に神宮司廳と地元民が請願
1921年 大正10年 内宮別宮として創立認可
1923年 大正12年 鎮座祭とあり お社自体は新しい神社です
神宮125社