2009年11月3日
宇治橋が架けかえられ 渡始式が行われました
何度も風水害により流失し、現在の形になったのは明治以降といわれている
長さ101.8m、幅8.42mの木造の和橋 木造では日本最大級である
遷宮も 戦後 国民の困窮の中 叶わず
天皇の意向もあり無期延期とされた
せめて宇治橋だけでもとの願いから、昭和24年に掛替えが行われました
遷宮も4年後 昭和28年には行うことが出来
以来 遷宮の4年前に 「宇治橋」の掛替えが行われています
伊勢は 「宇治=うじ」地区と「山田=やまだ」地区から構成されている
宇治地域に「皇大神宮」 内宮
山田地域に「豊受大神宮」=外宮が鎮座していた
山田地域に「豊受大神宮」=外宮が鎮座していた
明治39年から「宇治山田市」となり
伊勢市に成ったのは昭和30年のことである
宇治にあったから「宇治橋」とする説もある
宇治橋はもともと内橋(うちばし)といい 俗界と神苑とをわかつ境の橋
として神聖視されてきた
五十鈴川も もとは「御裳濯川=みもすそがわ」といわれ
倭姫命が身にまとっていた裳(も)古代人の腰巻風の衣服を濯(すすぐ)いだ川の
ならば 「五十鈴とは」 ? 神楽を舞う際に使う「鈴」でもあり
ことば 言霊(ことだま) アイウエオの五十音とする説があります
人は口の形を変えて音を発し、音のつながりに意味を持たせて言葉としている
意思を伝える 心を伝える 言葉にも魂や霊が宿ると考えたのでしょう
神宮をすべての基(もとい)とした古代人の想いに叶う名なのかもしれません
日本最古の歴史を持つ自動車会社「いすゞ自動車は」この五十鈴川に因んでいる
江戸時代の医師で国学者
「本居宣長」も鈴をこよなく愛し
自らの庵を「鈴屋」=すずのやと名づけ、鈴の収集家としても知られている
宇治橋の両端の鳥居は内宮 外宮の「唯一神明造」の社殿を支える
外側に立てられた柱(棟持柱)からできております
遷宮の時には建て替えられ、桑名の「七里の渡し」と
亀山市関宿の「東の追分」に譲られ 神宮遥拝の鳥居として20年役目を果たします
その後は全国の神社へ御用材として分け与えられます
神宮は太古より「エコロジー リサイクル リユース」を実践してきているのです
旧宇治橋の木材は 「御守」に加工され頒布されています
この鳥居は 宇治橋を守るための鳥居であり
正式な神宮の第一鳥居は 「手水舎」のところにある
明治時代まで民家がここまで立っていたと言う証である
第二鳥居は 五十鈴川の禊場を過ぎ ご正殿へ向かうところにある
饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)
もとは 船着場の守護神と言われている
饗土とは四方八方に悪しきものが立ち入らないようお祀りしたところで
神宮の守りの神の意味合いが大きい
宇治橋渡始式は饗土橋姫神社の神事のあと挙行された
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